- 女将だより
- 2014/07/24
こだまでしょうか
こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう
「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、 いいえ、誰でも。
先日、スタッフがお客様からのご質問で金子みすゞさんの「こだまでしょうか」の詩の中の最後の一節の『こだまでしょうか、いいえ、誰でも』の言葉の意味を質問され、うまくご説明できないと言ってまいりました。 このご質問は、今回が初めてではなく、時々ございます。 矢崎節夫先生の「みすゞコスモス2」の本に、解りやすく書かれおりますので、ちょっとご紹介いたします。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 「こだまでしょうか」を読むと、本当にそうだな、と思います。 人と人、人と自然、私たちの世界はすべて〝こだま〟で成り立っているのです。 〝こだまとは、こちらの存在を丸ごと受け入れて返してくれる行為〟です。そして、返ってくる時は、半分の大きさになって戻ってくるのです。 幸いなことに、かつて私たちはこだましてくれる大人に囲まれていました。「痛い」といったら、「痛いね」といってくれる、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、先生でした。 痛い時に、「痛いね」といってくれたおかげで、私の痛さはいつの間にか半分になったのです。さらに、「痛いね、痛いね、かわいそうだね」と繰り返し、こだましてくれ、こころに添ってくれたおかげで、私の痛さはいつの間にか消えていったのです。 「痛いの、痛いの、飛んでいけ!」という呪文も、まず丸ごと受け入れてくれて、初めて効果を発揮できたのです。 今は、どうでしょうか。 小さい人たちは、こだまをしない大人によって囲まれている、そんな気がします。 「痛い」といった時、「痛くない」という大人が増えました。否定することで、痛みは消えると思ってしまったのでしょう。 〝このお父さんなら、このお母さんなら、愛してくれると思って生まれてきた子どもたち〟です。 この愛してくれるべき大人から、「痛くない」と否定された時、その子の痛さはどこへいくのでしょうか。 痛さやさびしさやかなしさを入れる、こころの中にある器に、そのまま入れるしかないのです。 そして、とても残念なことに、この器が中学生ぐらいでいっぱいになってしまう人がいるのです。 そうすると、新しい痛さやさびしさ、かなしさに出合った時、器にはもう入れられないので、一度、その器をひっくり返して、からにしなければならないのです。 このからにする行為が、「なんであんないい子が、あんなことしたんだろう」とか、「あんないい子が、あんなことをいうんだろう」と、大人が驚くような行動や発言になるのでしょう。 それなのに、私たち大人は、「時代が変わった」とか、「世の中が変わった」と、まるで自分とは関係がないかのようにいうのです。でも、時代を変えたのも、小さい人たちではありません。私たち大人なのです。 一番大切な人たちに〝こだます〟ことを忘れ、一方的に否定することで、痛みをそのまま置いてきたことにも気づかずにいる私たち大人が、小さい人たちを追いつめてきたのです。 だからこそ、みすゞさんは、今、甦ってくれたのでしょう。 小さい人たちのためだけでなく、いえ、私たち大人が、忘れてきてしまった大切なことを思い出すために、みすゞさんは甦ってくれた、そんな気がします。(みすゞコスモス2より) ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 相手の言葉にこだまし合うことで(繰り返すことで)
相手の気持ちと響き合い、寄り添うことができる、
それは誰でもできるのよ!(誰でもそうなのよ)
そういう意味がこめられているのだと思います。