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【山口観光】長門湯本温泉とともに600年。歴史が息づく大寧寺で歴史上の人物に思いを馳せてみませんか?

大内氏、毛利氏、三条公、上杉氏など、歴史上の人物が大寧寺に!大寧寺を10倍愉しむ、見どころをご案内

山口県のお花見の名所、紅葉の名所としても知られる長門湯本温泉の大寧寺は、静かな山間に佇む曹洞宗のお寺です。実は大寧寺は室町時代に開創されたお寺で600年の歴史を歩んでまいりました。室町時代から戦国時代、そして明治維新。激動の歴史の舞台としてたびたび登場しております。本日は、歴史に奔走された大寧寺の歴史を紐解きながら、見どころポイントをご紹介してまいります。桜や紅葉の季節以外にもぜひ、歴史ロマンを感じる散策をおたのしみくださいませ。
参考文献:六百年の歴史をひも解く「大寧寺おのがたり」(著:岩田啓靖※大寧寺住職)

10倍楽しめる!大寧寺の見どころポイント10選

目次

  1. 姿見の池、かぶと掛けの岩、そして大内義隆公
  2. 厳島の戦いと毛利氏、毛利隆元公と大内義隆公の関係
  3. 吉川元春公、来嶋又兵衛公につながる湯本南条踊(県指定の無形民族文化財)と大寧寺
  4. ゲルバー橋よりも前に同じ技法が日本に存在?!盤石橋(防長三奇橋)
  5. 盤石橋から山門を通り本堂へ。神聖な雰囲気に包まれる山門跡
  6. 鷲頭氏、大内氏、陶氏、毛利氏。栄華衰退を刻む本堂
  7. 住吉大明神様のお告げ!600年前より今なお、岩盤から滾滾と湧き出す長門湯本温泉
  8. 日本で最も古い学校・足利学校を再興した上杉憲実も暮らした大寧寺
  9. 長門豊川稲荷と強靭の貴公子・三条実美公
  10. 武田信玄公にもつながる、長門湯本温泉

姿見の池、かぶと掛けの岩、そして大内義隆公

西の京と言われるほど山口に大内文化を育てた中世の名族・大内氏。その最後の当主が31代大内義隆公です。1551年春、フランシスコ・ザビエルと会見し、山口に布教活動を許したのも義隆公です(1569年織田信長がルイス・フロイスと京都で会見する18年も前のお話です)。実はこの風流さが、家臣・陶隆房(晴賢)公がクーデターを起こすきっかけになってしまたのです。陶氏はもともと、山口の東側の所領を持ち、大内家の侍所の主将として主家を武力で守る役割を担っておりました。武に長けた陶氏はひしひしと感じる戦国時代の到来を危惧し、文化風流に傾倒する主君へ憂いが募り、ついに1551年8月28日、主君の居城(山口市)を急襲します。大内義隆公は、青海島から大型舟で逃れようとお海島の後根氏を訪ねましたが、大型舟が出払っており一隻もなく、かつ、台風が到来し内陸用の小型船では困難な状況でした。一行は無念の思いで大寧寺に向かうことになります。ちょいど、大寧寺の旧参道に到着した際、入山の前に(大寧寺に入る前)夜通しの逃避行で乱れた髪を整えようと、近くにあった池に顔を覗かせました。しかし、水面に自分の姿を見ることができなかったことから(水面に映らず)自らの運命を悟り、そのまま本堂で潔く自刃いたしました。その時に覗いた池が「姿見の池(鬢水池)」、兜をかけた岩が「かぶと掛けの岩(兜掛岩)」です。最後まで風流な生き方をされた大内義隆公を物語る貴重な史跡でございます。余談ではございますが、義隆公を守り大寧寺に落ち延びた重臣に、冷泉隆豊公がおりました。自刃した義隆公の介錯を終えた後、冷泉隆豊公は割腹、自ら腸を敵陣に投げつけるという悲憤の最後を遂げたと言われております

厳島の戦いと毛利氏、大内義隆公と毛利隆元公の関係

ryufukuji そしてその4年後の1555年10月、毛利氏が厳島の戦いにて陶氏を滅亡させ、中国地域を掌握していきます。1410年大寧寺を開創した大内家の重臣・鷲頭氏、1448年鷲頭氏滅亡させた主君大内氏、1551年大内氏を滅亡させた重臣の陶氏、そして1555年陶氏を滅亡させた毛利氏。『討つ者も 討たるる者も 諸(もろ)ともに 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)』(人の一生は、露のごとく雷のごとく儚いものだ。あるがままを受け入れよう)。時は室町時代から戦国時代へ。まるで時のいたずらのように繰り返される大きな時代の流れを、大内義隆公の辞世の句からもみることができます。現在、山口市大殿大路にある「瑞雲山龍福寺」(本堂が国指定重要文化財)は、毛利氏が防長平定後、1557年に後奈良天皇の綸旨をいただき、毛利隆元(毛利元就の長男)が大内義隆公の菩提寺として建てた曹洞宗のお寺です。毛利隆元公は幼少期、人質として義隆公の元で養育されており、元服の際の烏帽子親が義隆公です。また、龍福寺の資料館には、大内義隆公の他、歴代の大内当主の画像が残されております。中でも14代大内政弘公の画は資料館にしかない一枚として、歴史好きの観光客が足を運んでおります。(画像上:龍福寺境内の大内義隆公の辞世の句碑、画像下:龍福寺本堂と梅)
■瑞雲山龍福寺(本堂:国指定重要文化財)

・住所:山口県山口市大殿大路119(大内氏城館跡に隣接)
・時間:9:00~17:00(資料館)
・料金:200円、小中学生150円(資料館)
・休館:年中無休
・アクセス:大谷山荘よりお車で約65分
・連絡先:083-922-1009

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吉川元春公、来嶋又兵衛公につながる、湯本南条踊(山口県指定の無形民族文化財)と大寧寺の関係

nanjyouodori 420年も続く湯本南条踊り(山口県指定民族文化財)とは、毎年9月に開催される赤崎神社例祭の奉納まつりで踊る慶事の踊りです。武士風の衣装を身にまとった踊り手が円陣を組みながら、太鼓や笛、鉦の表紙に合わせて踊ります。武士風の衣装のとおり、この踊りの由来には、歴史ストーリーがございます。1578年吉川元春公が伯耆の国(鳥取県)羽衣石(うえし)城主・南城元次公を攻撃するが、容易に落城しなかったため、南城元次公が兼ねてより踊り好きという情報を元に、強兵を踊り子に扮装させて城内に入らせた。兵士の踊り装束の下は戦装束になっており、南条軍の油断をついて切込み、ついに城を攻略しました。その吉例を踊った踊りを「南条踊り」といい、吉川藩にて伝えられていました。その後、長門俵山の藩士・来嶋氏(幕末、禁門の変で遊撃隊総督として奮戦した来嶋又兵衛公の養子先の祖先)ら数名が、岩国に滞在していた際に、吉川家の許しをえて踊りを習得し俵山で再編成、その後(1674年)「他の地方に伝授しない」という約束で習得し、赤崎神社例祭の奉納まつりの踊りとして今なを続いております。湯本南城踊りは、毎年9月の第2日曜日に開催、総勢40人が大寧寺からはじまり、赤崎神社の楽桟敷、飯山八幡宮、長門湯本温泉の住吉神社に踊りを奉納いたします。国により、記録作成などの処置を講ずべき無形民族文化財に指定されております。
■赤崎神社楽桟敷(国指定重要民俗文化財)

1596年建築。最高12段の自然の勾配を利用した階段状のスタンド
・住所:山口県長門市東深川藤中
・時間:毎年9月の第2土曜日・日曜日(赤崎まつり)
・  :土曜14:00~20:00、日曜13:00~15:30(赤崎まつり)
・休館:年中無休
・アクセス:大谷山荘よりお車で約8分
・問合せ先:0837-23-1264(長門市役所教育委員会文化財保護室)

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ゲルバー橋より前に同じ技術が日本に存在?!盤石橋(防長三奇橋)

大寧寺の本堂に通じる橋「盤石橋」は、1668年(寛文8年)に建架され、1764年(宝暦14年)に再建架されました。大小の自然石を組み合せて積み上げたのみの技法は、1868年にドイツにて突桁式工法で架橋されたゲルバー橋と同じ工法(1867年ハインリッヒ・ゲルバーにより考案された構造形式)。それよりも以前に、同じ技術が日本にあったことを意図しており、文化財的価値が高いとの評価を受けております。 大きさは、全長14.2メートル、幅2.4メートル。自然石を巧みに組み合わせた工法でできた橋としては、他に、岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋はある(防長三奇橋)。

盤石橋から山門を通り本堂へ。神聖な雰囲気に包まれる山門跡

山門とは、俗世から仏様の世界に入る入口の意味をもちます。もともと、中国の寺院が山に建てられていたことから由来すると言われております。日本のお寺には山号があり(大寧寺は瑞雲山)、このことからお寺に入る門が山門と呼ばれるようになりました。大寧寺の山門は、盤石橋の正面にあり、桁行5間、梁行2間5尺の大きさを持つ桧皮茸入母屋重層の荘厳な建造物でした。1570年代、毛利家の永代家老・益田藤兼公が寄進、その後、1640年(寛永17年)野火により焼失したが、1677年(延宝5年)に益田元堯公により再建されました。しかしながら、明治以降、毛利家の庇護を受けられなくなったため、維持が困難となり明治末期に倒壊、今日は山門跡のみ残っております。

鷲頭氏、大内氏、陶氏、毛利氏。栄華衰退を刻む本堂

大寧寺の開創は1410年(室町時代)、当時の長門守護代・鷲頭弘忠公(大内家の親戚筋)が、20年の宋留学経験を持つ当時一流の学者・石屋真梁禅師の訪問を喜び、城下内に康福寺を建てたのがはじまりです。当時の康福寺は、現在の大寧寺のある場所より海側に位置する殿台という場所にあり、鷲頭氏の居城・深川城の敷地内にあった言われております。その後、大規模な伽藍が必要になったことから現在の地に移転し、名前も「瑞雲山大寧護國寺」に変わりました。ちょうどその頃、日本海を通じて山陰側の鉱山を元とした海運貿易が盛んとなり、経済面にて次第に実力をつけた鷲頭氏は、28代当主・大内教弘公と対立するようになりました。その結果、1448年2月17日、大内教弘公は鷲頭氏の深川城を急襲、鷲頭氏は滅亡しました。その後、大内教弘公の庇護を受け、大寧寺は七堂伽藍を備えるほどに整備された。七堂伽藍を持つ寺は当時の大学の役割をもち、各地から多くの禅僧が修行のために訪れる場所となり「西の高野」と呼ばれるまでになりました。同時に、長門湯本に湧き出す温泉資源を行政管理とし、その運営を大寧寺が請け負うという仕組みをつくりました。「住吉明神のお告げにより温泉が湧き出した」というお話の起源もこの頃です。のちにこの仕組は、明治維新後の寺の運営を支えてまいりました。そして1551年(鷲頭氏の滅亡から約104年後、大内義隆公がフランシスコ・ザビエルと面会してから半年後)、31代最後の当主・大内義隆公が家臣・陶隆房(晴賢)氏のクーデターにより、大寧寺で悲劇の最後を遂げることになりました。その際、本堂も焼失いたしました。その4年後・1555年、厳島の奇襲戦(厳島の戦い)により陶氏が滅亡しました。その後は、毛利氏の庇護を受け本堂は再興、その後1640年(江戸時代・寛永19年)の野火により焼失したが、その際に焼け残った衆寮を本堂として1829年(江戸時代・文政12年)に移築しました。これが現在の本堂です。350年以上の歴史的建造物として、1979年山口県指定有形文化財に登録されました。そのほか、境内にはいくつかの文化財がございますので下記にご紹介いたします。

大寧寺の史跡および文化財

  • 本堂:山口県指定有形文化財
  • 境内:山口県指定史跡
  • 墓地:山口県指定史跡(中世・近世の墓地群)
  • 梵鐘:長門市指定有形文化財
  • 塔頭興阿寺:長門市指定有形文化財

住吉大明神様のお告げの通り!600年前より今なお、岩盤から滾滾と湧き出す長門湯本温泉

sumiyosidaimyoujin 日本各地の温泉地には、その温泉地の起源を語る逸話がございます。長門湯本温泉にも同様で、住吉大明神様が登場する壮大な話が大寧寺由緒書(毛利家文書)に記録がございます。そのお話を要約いたしますと…「1426年、大寧寺3世・定庵殊禅師の頃、住吉明神が頻繁に方丈を訪れるようになりました。老翁の姿で、次は愚人の姿になり入室し、法を学ぶこと幾日にもおよびました。ある月夜の夜、一人の老翁が本堂の西側の磐石に一人座禅を組んで定庵殊禅師を待ち受けておりました。定庵殊禅師が名前を尋ねると老翁が祖富国一宮住吉大明神であることを明らかにしたため、住吉大明神に敬意を表して次の歌を詠みました「松風の声のうちなる隠れ家に、むかしも今も住吉の神」。その後、定庵殊禅師はただちにその老翁を丈室に招き、仏道修行の奥義を記した菩薩大戒と錦の袈裟を住吉大明神にお渡しになりました。すると、住吉大明神はその御礼に「大寧寺から8丁南の地に温泉を湧かしたので衆僧の灌浴につかってほしい」と言い残し、天空に姿を消しました。そのお告げの場所が今の長門湯本温泉の恩湯で、600年を超えた今なお、岩盤から温泉が今なお湧いております。画像は住吉大明神の尊牌です。袈裟を掛け冠を頂いた姿は1~3世と異なる様相で、大寧寺の奥の院「御開山堂」に座っておられます。余談ではございますが、江戸時代、俵山温泉、川棚温泉、湯だ温泉は、萩藩の直営温泉であったが、湯本温泉だけは「大寧寺のおかかえ」として、経営を任されていました。また、湯本温泉には萩藩直営の「御茶屋」(藩主の湯治施設)があり、藩主もたびたび湯治に訪れていたと萩藩の行政資料に記録されております(「地下上申」)。
長門湯本温泉「恩湯」2020年3月オープン

・住所:山口県長門市深川湯本2265
・時間:10:00 ~ 22:00
・料金:大人 平日700円、休日・休前日800円、特日900円、
    子供400 円(4~ 12才)、3歳以下の子供無料
    ※特日は、年末年始、お盆、ゴールデンウィークなど
・休館:毎月第三火曜日(祝日の場合は変更あり)
・アクセス:大谷山荘より徒歩約6分
・問合せ先:0837-27-0281(長門湯守株式会社)

 

日本で最古の学校・足利学校を再興した上杉憲実公が暮らした大寧寺

上杉憲実公は、上野・武蔵・伊豆の守護大名。10歳で関東管領となり、1439年、日本最古の学校「足利学校」を再興した人物として知られております。1439年の永享の乱の後、弟に家督を譲り剃髪し出家。その後、いくつかの苦難を経たのちに西国行脚の旅に出発、その最後の地として、1452年、当時大寧寺の住職であった竹居禅師の元を訪れました。上杉憲実公は境内に槎留軒(筏をしばらく留めるという意)という庵を建て、1466年生涯を終えるまで滞在されました。その庵は1843年(天保14年)三隅市豊原へ移され境内の跡地が不明ですが、住吉明神様が座禅されていたと言われる場所のすぐ近くに、上杉憲実公の墓所がございます。

長門豊川稲荷と強靭の貴公子・三条実美公の

長門豊川稲荷は、日本三大稲荷のご神体・叱枳尼真天(だきにしんてん)のご神体が贈られたことにより1961年(昭和36年)、長門豊川稲荷となりました。実は、稲荷の宗社・妙嚴寺豊川稲荷(豊川市)と幕末から明治維新に活躍した尊皇攘夷派の公家・三条実美公と深いつながりがございます。大内時代、長門湯本温泉の深川庄は三条家の領地で、三条実香公(三条公頼公の父)が創建した興阿寺が湯本温泉の住吉社の隣にございます。その縁もあり、1863年(文久3年)の政変による七卿落ちの際、大寧寺の45世・運泰成和尚が三条実美公を手厚く保護しておりました。明治維新後、兵制改革から各地で兵士による反乱が発生。その度に首謀者の処刑が相次いでいたことに心を痛めた運泰成和尚は、彼らの助命運動に尽力しておりました。そのため藩から敵視され、妙厳寺(豊川市)に身を寄せることとなりました。しかし、ちょうどその頃、国の神仏分離令により妙厳寺豊川稲荷が消滅の危機にありました。運泰成和尚が政府に救済を求めたところ、折しも新政府の要人に三条実美公や長州人がおり、妙厳寺豊川稲荷は神仏分離を免れました。以上の縁から、大寧寺に長門豊川稲荷が贈られました。長門豊川稲荷に奉献されている2対の白狐は、稲荷のご神体である叱枳尼真天を載せて仏道を守っております。

武田信玄公にもつながる、長門湯本温泉

1551年9月1日、大内義隆は家臣の陶隆房(晴賢)のクーデターにより大寧寺で自刃いたしますが、その際、大内義隆に招待されて山口に滞在していた三条公頼公も難を逃れるために義隆を追って大寧寺に向かっておりました。しかし、途中で暴徒に襲われ命を落としてしまいました。そして、武田信玄公の正室・三条の方は三条公頼公の娘です。この因縁により信玄公は、義父の供養のために家臣の上田河内守を長門湯本温泉の地におくったと伝える記録が残っております。

大寧寺のアクセス情報


  いかがでしたか?今回は、大寧寺散策におすすめのポイントをご紹介いたしました。歴史の舞台に登場する大寧寺は、その歴史を知れば知るほど、訪れたくなる場所でございます。もちろん、おでかけ先に迷ってしまったら、ぜひお気軽にスタッフへお声掛けくださいませ。お待ちいたしております。(画像はイメージです)

ご宿泊のお客様へ~冬のイベント開催中です(12月~2月)

冬のイベント・フェアを開催中。「クリスマスフェア」(12月25日まで)、獅子舞や福袋販売(お正月三が日)、「風呂の日フェア」(2月6日)、冬季限定「ふぐフルコース」(3月まで)をご用意いたしております。静かな時が流れる長門湯本温泉の冬。湯けむり漂う温泉と滋味深い冬の幸をご用意し、お待ちいたしております。

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»大谷山荘 予約センター
電話:0837-25-3300(9:00~18:00)